思いを置き換える
Mt. Fuji from Shinkansen, on the way to Kyoto
海外では自己主張だ。はっきり言わないと伝わらない。
よく耳にするその言葉を、果たしてそうだろうか、といつも疑念をもって聞いています。
話す人の表情を見て、話に耳を傾け、汲み取り、補完し合い、助けあう。
それは仕事だけじゃなく、ごく日常の生活のなかでも。
場所が日本を出た海外であっても、特に違いは無いのかな、と思っています。
同じ目標を持った人との間では、はっきりと言う、ということ自体の重要性をそれほどに感じたことはありません。
米大統領が広島でスピーチ。
残念ながら僕自身は不勉強で、その意味や意義を深く理解できてはいませんが、
そこにはっきりとした謝罪や賠償の言葉は無くても、言葉に聞き入り、汲み取り、受け取る。
被爆者の方々のその姿は、優しさ、強さ、人への情けの心を持つ大切さを教えてくれるようでした。
言えないこともあるだろう。
本音だけで話せる立場でもないだろう。
国の指令で原爆投下を余儀なくされた米兵、そしてその家族も気の毒だったろう。
遠くからわざわざ忙しいところ、足を運んでくれてありがとう。
もちろん、実際の大統領の気持ちは、ご本人にしかわかりません。
ノーベル平和賞のために来たのかもしれない。
歴史に名を刻みたいために来たのかもしれない。
それでも、大統領の言葉を信じ、その意味を咀嚼し、足りない部分を自ら補完して、受け取る。
被爆者の姿は、人が受け取り方の世界の中に生きていること、そしてその世界は、自分がどう受け取るかによって、良くも悪くもかたちを変えること。
それらを身をもって表してくれるようでした。
平和を願う気持ち。
この共通する想いを形にするプロセスの中では、たとえ被害者と加害者という間柄であっても、協力し合える。
被害者、という思いを、共感者、へ置き換える。
僕らの先輩は凄い人たちでいっぱいです。